嘘つき達の表の顔を垣間見る「オモテ小説」↓

相棒が死んだ

「ペンネームの由来ですか?
俺が牛肉好きで、相方が豚肉好きやったんです」

彼らは「牛巻豚平」という一風変わったペンネームの理由を聞かれる度に、
そう答えた。

原作担当の徳永真守(43)と作画担当の及川敏夫(43)は、大阪出身の幼馴染だった。二人のように原作と作画を分業するスタイルは決して珍しくない。
人間には適正というものがある。ストーリーを考えるのが得意な人もいれば、ひたすら絵を描くのが好きな人もいる。原作の徳永は、ある漫画賞の受賞インタビューで、こう答えている。

「及川がいてくれたから、今の俺がいるわけで。
結局、俺は及川のファンなんすよ。中学時代から、ずっとそうで。
 やから、どんな漫画になって仕上がって来るんか楽しみなんです。
いつも俺が一人目の読者なわけ」

対称的に、作画の及川の言葉は短かった。

「徳永は本当にすごい」

2人が、お互いの才能を認めているのは明らかだった。

売れた漫画家には、必ず代表作と呼ばれるものがあるが、
デビュー作で売れた彼らは、それがそのまま代表作ということになる。

「ドク少」

でおなじみ、漫画『ドクロ少年団』である。

少年誌での連載が始まったのは、1995年の春だった。
当初、世界各地に散らばるドクロを探し求める少年たちの冒険活劇としてスタートした。それが、少年達はドクロを2つほど集めた所で、なぜかドクロ探しをストップ。その後は、彼らの生まれ育った村を舞台に、くだらない暮らしぶりが延々と描かれている。もうドクロうんぬんの設定はなかったことにされ、少年達は高校生にまで成長した。世間一般に知られる『ドクロ少年団』とは、後者のことである。傑作漫画の金字塔『行け!稲中卓球部』を彷彿とさせるような、登場人物たちの軽妙なやりとり、青年期特有の”あるある”がウケて、
単行本の累計発行部数は3,000万部を超えている。
人気に拍車を掛けたのは、若手俳優による実写化だったことはよく言われることだ。まだまだ終わりそうにない連載は、今も尚、根強い人気を誇っている。

2人は売れた今も、アシスタントを使わないことで有名だった。
世田谷の一等地に構える、通称「ドクロスタジオ」には、
徳永と及川の2人しか入ることが許されない。
長年の担当編集者である長井でさえ、原稿の受け渡しは、必ず外だった。

一時、2人にゲイ疑惑が持ち上がったが、それは根も葉もない真っ赤な嘘だ。
それぞれに30代で結婚した妻がいて、それぞれに子供がいる。
順調な仕事と幸せな家庭。
それは、いつまでも続くはずだった。

深夜2時、自宅で眠っていた徳永の携帯電話がけたたましく鳴った。
名前を見れば、長井である。
こんな時間に電話が掛かって来ること自体はよくあることだったが、
日曜日の夜に掛かってくることは稀だった。

「…及川さんが、亡くなりました」

徳永の頭の中が、一瞬にしてホワイトアウトになる。
確か、この週末、及川は家族で温泉へ行くと言っていたはずだ。
なのに、どうして?! 長井は、声を絞り出すようにして続ける。

「対向車線のダンプカーとの正面衝突による…即死でした。…ご家族も」

及川が死んだ。
相棒の及川が死んだ。

「牛巻豚平さん、あんたも死んだんですか」